東日本大震災、大津波のレポートを少しづつ投稿していこうと思います・・・


まずは沢山の方たちに感謝の言葉を。

Jは既に避難所指定されていた山田町豊間根中学校から岩手県岩手郡雫石町にある長栄館という旅館に避難移動しました。
豊間根中学校に避難滞在中(2週間)に食事を欠くことなく提供してくれた方たち(もちろん今なお継続中ですが・・・)がいます。
炊き出しを行い、おにぎりを結び、我が家の米を使い果たしてまで我々に食事を供給していただいている豊間根地区の方たちです。ここからは他の山田町避難所へも配送されました。
我々、豊間根地区避難者が最初に本当に感謝の意を表しなければいけないのは、この方たちです。

本当にありがとうございます。お返ししようもないほどのご恩をいただきました。
Jを含めたボランティアスタッフが避難者全員に滞りなく食事を供給できたのは本当にこのおかげでした。

ありがとうございました。

そして、溢れるほどの物資供給をしていただいた本当に沢山の方たち。
個人単位に、お店単位、企業単位で、数えきれないほどの供給物資をいただき、ひもじい、辛すぎるなどの感情を覚えずに済みました。
おそらく今まだ絶え間なく物資供給が続いていることと思います。

航空自衛隊、陸上自衛隊。毛布、灯油、電力供給に注力いただいた陸中山田駐屯みなさん。

そのほかには仮設トイレをご提供いただいた方々。

被災者であるのに毎日の食事にお料理を提供していただいた方たち。

豊間根中学校の校長先生はじめ諸先生方。先生方の中にも被災して家を無くされた方もいらっしゃいます。

薪や、物干し竿やら、炊き出しの準備やら、何よりディーゼル発電機をお貸しいただいて、高齢者への暖房確保にご尽力いただいた、そして現在、遺体捜索、残骸整備に忙しい建設業の方たち。

共に動いてくれたボランティアスタッフや同級生たち、常駐してくれた山田町役場職員諸氏。

Googleなどに投稿してくれたみんな。こんなに沢山心配されるなどとは夢にも思っていなかった。
本当にありがとう!混乱を懸念して投稿されなかった方たちもいらっしゃると伺いました。
ありがとうございます。
本当にご心配おかけしました。

mixi, facebookで連絡網になってもらったみんな。本当にありがとう!
こうして無事でいます。親父ともども無事でいます。

行き場を失った山田町町民を受け入れてくださった長栄館、雫石町役場、ボランティアスタッフの方たち。
(現在、内陸の各地では同様の受け入れが行われており、沢山の被災者の避難移動が継続中です。)
全ての方たちに感謝します!



*               *               *


次に、言うまでも無くJは今なお被災者であり避難民です。その立場として皆さんに伝えようとしていることはドキュメントであるかもしれないし、単なる推論であるかもしれない。
だから、こんなブログごときで2011年3月11日 14;46から始まったこの震災の凄惨さを伝え切ろうと言うものではありません。
起こったことのわずか0.00000001%にも満たない事実を書いていこうとしているだけです。
星の数以上もいる被災者。その方たち全ての苦しみは代弁できません。Jには伝えられないんです。

例えば、想像できるでしょうか。

6人家族で自分一人だけ生き残ったことを。
目の前で沢山の人達が大波に呑まれていく様を。
呑みこまれたり、流されたのではなく、瞬間で波に叩き潰されて壊滅した部落。
そこには現在も首が無いなどのため身元が確認できない遺体が散乱しています。
離れ小島に打ち上げられ、折り重なっている遺体。
その海の中に散在し、半永久的に回収不可能だろうと言われる無数の遺体。
遺体安置所を回っても、自分の身内があがらない、その気持ち。
(Jの家族は全員無事でしたが親戚が何人か呑みこまれたようです。まだ未確認です。)

・・・・

この惨状を直視しなければいけない理由はなんだ?
と聞かれて、答えられません。

だけど、それならこの惨状から目をそむけて良い理由はなんですか?
上記の数行だけで既に恐ろしくなった方もいることでしょう。
直視しろとも、目をそむけろとも言われていない。
「怖いからあたしはもういい・・・」
「気持ち悪い・・・」
当然です。

Jは全ての沿岸地域を見て回ったわけじゃありません。
ですが、情報だけでも山田町の被害は甚大だったようです。
波に流されなかった家は焼けました。ただただ映画の地獄絵図のように広がる火災を手出しも出来ずにみんな眺めているだけでした。どうしようもなかった。

同じように山田町に限らず、多くの町が壊滅しました。

今回の津波、高さ23メートルと言われていますが、実際に潰れた部落の海抜を考えると50メートルだった可能性があるそうです。

そして全幅230kmに及ぶ大波・・・。

この範囲内に同じような身元不明、回収不可能な遺体がゴミのように散在しているんです。

腕をちぎられ、首をもぎ取られ、半身をもぎとられ、顔を半分潰され。あるいは海の中で腐食していくしかない。
車ごと流されその中で死んでいく。この方たちは顔がわからないなどのため身元不明者であり、行方不明者であり、これからカウントされていく死者であるわけです。合同葬にも加えられない。火葬さえもしてもらえない。
海の中の遺体は引き揚げようとすると崩れてしまうため手をつけられないそうです。


第2波の直後、仙台には300人以上の遺体が浮いていると情報がありました。
けれどこれはほんの手始めだったことはみなさんニュースなどでご存知のことと思います。



被災後に3日ほど経ってから初めて、消えうせた町の真ん中に立った時、一番最初にでたのは涙でした。言葉なんか出なかった。そしてあきれて笑ってしまった。どうにもできなさすぎるから・・・。

この全てを想像できるでしょうか。

いや・・・しなくてもいいかも知れない。当事者たちでさえ自分の周囲以外を想像することはできないのですから。
現実から目をそむけたい方たちはこの辺でJのブログを読むのはやめてください。
「はだしのゲン」を書こうとしているわけではないので・・・。


地震は断続ではなく隙間なく続いています。


Jの故郷は壊滅しました。それでも、今、この町でまだ戦おうとする人たちがいます。

迷いました。上を向くことは目をそむけることなのか。事実を伝えることは後ろ向きなことなのか。
いつものように馬鹿話を作って掲載すれば、それで笑顔でいることになるのか。

でもやはり、彼らを,日本中の壊滅した町でもう一度「根」を張り直そうとする人たちを応援する意味でも、Jは不定期にこのブログをしばらくの間ゆっくりと綴っていこうと思います。