逃げられる漁業船は沖へ逃げた。
そこで呑まれた船もあるが、逃れた船も多数ある。
その中の一つに乗っていた人たちは、山田が燃えていく様を観ていた。
逆に陸からは想像できないが、直視出来るものはなかったそうだ。
もちろん我が町であり、我が家もそこにあり、家族もいて、色々な気持ちが入り混じったことも手伝ったと想像する。

夜が明けると役場前の火事は収束し始めた。
2M近い、あるいはそれ以上の浸水を受けても津波に流されなかった中央部の建屋は全て焼けた。
大空襲後さながらに各所に煙が上っている。
だが裏手の家はまだ燃えていた。

コミュニティセンターでは火が暴れたいだけ暴れている間、朝までに2回移動指示が出た。
その度、荷物を抱えた人々は外へ出ては又部屋へ戻ってくる。

何をやってんだ?

内の一度は、火事が裏山に燃え移りそうだからという理由だった。
役場の傍には八幡神社があり、その双方を囲んでいる山に火の手が移ろうとしている以上、確かに危険に感じられる。
役場、図書館はその山の真下にあり、1.5M程の間隔しか離れていないものの、更に隣接とは言えコミュニティセンター自体は半ば独立した状態で充分な間隔を持った鉄筋コンクリートでもあった。
役場前では金網越しに数メートルの場所で家屋が燃えていたが、センターの入り口から10M以上の直径を持つ公園風の広場を挟んでいたから、懸念の対象が津波ではなく火事なのであればむしろ安全な気がした。


時間は覚えていないが、日が昇って明るくなってからだが、隣接する図書館からもコニュニティセンターに人が集められた。
今度こそ高齢者、身障者を優先した300人の移動が始まった。
既にガソリンが入手できない状態になっていたが、とにかくセダン、ワゴン等自家用車、社会福祉協議会などの動ける車は避難者を乗せて数回往復した。

しかしだ・・・
コミュニティセンターは指定の避難所だ。なのに遮二無二移動するわけは?

単純だった。
なんと、水と食料が一食分しか確保できていなかったらしかった。
被害を受けなかった豊間根地区なら水は止まっていないし、当面の米を確保できているということだった。
この情報をどうやって得たかはさほど問題ではないだろう。
だが、憂慮すべき点は当避難所での食糧と水の確保量だ。
夕べ、缶づめパンは高齢者にしか渡さなかった。
一体何食用意できていたのか。
ここは町の中枢である避難所だ。
町の全員がこの場所に避難してくることだって考えられたことだ。
本来、最も機動力と情報を持ち、非常電源の確保も、職員も非常事態の対応を訓練されており、自衛隊、消防隊、警察全てにおいてここに本部を据え置くことが可能と考えるのが一般的ではないのか。
津波に破壊されたならばまだしも、建物自体は全くの無傷だ。
災害発生時でも一晩でみんな家に帰れるだろうと高をくくっていたに決まっている。
ここで数日過ごす可能性があることは全く考えていなかったことになる。

避難者の中に同級生たちが数人いた。
内の一人Rは水分補給を考えて近くのスーパーで横倒しになったトラックからジュース類を大量に運び出していた。
もちろんスーパーの専務に許可をもらっての行動だったが、このジュース類は波にさらされている、いわば被災物資だ。
だが、後に全部捨てることになるとしても水分確保の方向性としては正しかった、と思う。

豊間根中学校の体育館に到着すると、すでに先陣がディーゼルの大型発電機を確保していた。中学校近隣の建設会社を回って緊急提供してもらったのだと言う。
体育用マット、ブルーシート類はもう敷き詰められていたし、卓球台を使って入口からの風を塞ぐ準備もできていた。
すぐに電源ドラムの設置、ストーブの配置が始まる。
ジェットヒーターもあり、工事現場用照明がいくつか設置された。

この作業にメインで先導切った数人がこの即日から後の2週間を動かすボランティア自治体になる。
リーダーのスーさん、サブリーダーの古さん、J、R、まだ若いK、S。そして豊間根中学校校長、役場職員数名。
すぐに豊間根地区住民による炊き出しの支給が始まった。
おにぎりの配給元は全く不明だったが、コミュニティーセンターから避難所への大移動を聞きつけて、当地区住民たちが自宅から米をかき集めて食事を提供してくれていたのだ。役場支所からの伝達があったか、否かは定かではない。
住民の米提供による炊き出しは最低でも2週間続いた。
豊間根中学校は自治体の確立と、統制は山田町の中で一番早かったらしい。
自治体にはJのブラスバンドの大先輩にあたるN女史、同級生K子等も加わり確立していく。


避難所に入った初日、毛布は大幅に不足していた。
親父も逃げる時に渡したタオルケット2枚を厚めに折りたたんで掛けた。
Jは缶コーヒー3本で1枚もらえる膝かけにもならないくらいの小さいフリースブランケットを2枚もっていた。
Sに一枚貸し二人で膝にかけると壁に寄り掛かって座った。
同じように壁に寄り掛かる若者が何人もいた。
横になるのでは床の冷たさが芯まで届く。この方がまだましだ。
とはいえ少しの眠気で体温が落ち、骨から震えが湧いてきて、貧乏ゆすりのように全身がビートを打つようだ。
敷いている段ボールは微小ではあっても効果はある。
壁までは届かないが、ストーブの暖気と人が発する熱はあったわけだし、外にいるよりはるかにましだ。
避難所で夜を越せる人は全く幸運だ。
少なくとも零下の風にあおられることはなかった。
津波に追われ、手足、顔を傷つけたり、波にもまれてずぶ濡れの状態で野宿していた避難者もいた。
避難所まで食事をもらいに行って、「避難所名簿に登録していなければ食事は分けられない。」と拒否されたケースもあるらしい。
なぜこんなことになるのか・・・。

二日目、当避難所でも早くも不満があがった。
毛布がない、隣が可哀そうだとか、不公平だとか・・・
予め用意された毛布とタオルケットはまだあった。
しかし、全員には回らない。そうでなくても初日から格差がでていた。
車で逃げた人の中には、家が流されなかったので布団を確保していたり、ダウンジャケットなどのアウターを大量に持ちこんでいたからだ。
震える人と、布団にくるまりいびきを掻く人の格差はあまりに大きかった。
公平にできない以上、むやみに寝具を配給することができなかった。
高齢者、身障者を優先し、少しでも我慢できそうな人には与えなかった。
これを物資を隠していると捉える人たちが殆どだと思う。
あるなら出せ、と言うのが本音だろう。
困窮した時ほど冷静に判断しなくてはならないことに気づいていないことが多い。
どうせ火の矢の食らうことはボランティアに乗り出した時点で覚悟している。
物資が増えてくればその量に合わせて、二人で一枚から、一人一枚、そして一人二枚へと増やして行けるのだ。
枕になる座布団も最初は全く足りなかった。
座布団はブルーシートで寝る人たちを優先して、これも補給量に合わせて増やしていく。
さらに重症な人たちは狭い柔道場に移動させた。
ここなら建物が新しいため隙間風もなく、柔道用の畳もある。
下駄箱もあるから、清潔だ。
ところがこれも問題が起きる。
本来ならば柔道場は老人だけで埋め尽くされるビジュアルだった。
ところが介護が必要なため、健常者までもが優遇された場所にいる。
体育館にいる老人がその人たちよりも優先されるべきだ。だが、これは外せない。さらに「家族が一緒じゃなければ・・・。」と健常者含めて5人程まとめて優遇させてしまう。
当然、同数の高齢者は寒い体育館から移動できない。
これは厳格にできないことなのだ。
場合によっては、家族そろって波にのまれて死んでいく人たちを目撃している可能性だってあった。
どんな恐ろしい、哀しい目にあったか本人たち以外に知る由もないからだ。
我々は医者ではない。
また、こんなときに家族から引き離すことが必要なことだろうか?

三日目を過ぎると毛布やタオルケットの量が増えてきた。
食糧物資にヤクルトや牛乳、バナナ、リンゴが入って来た。
やがてカップヌードル、おむつ、タオルも増えた。
衣料も入ってくれば、靴も来る。
靴は早々に履き替えた。
津波にもまれた町の土は全て被災しているのだから本来であればその泥を踏んだ靴は捨てるなり洗って消毒する必要があったが、誰一人そこまで頭が回っていなかったし、替えの靴を持って逃げた人は殆どいなかったのではないか。
だから足元だけでも少しでも綺麗にしておきたかった。

*          *          *

ここで、よく記憶しておくべきだと思うことをいくつか上げようと思う。
まず今時、海岸付近の海水が飲めるほど綺麗だと思う人は世界中探してもそう沢山はいないだろう。
それがごった返して流れてくる。
次に、津波が何を押し流してくるか考えてみたい。
浸水した家屋の中に真っ黒な土がべったりと敷き詰められている場面は何度かテレビでご覧になっているだろう。
海底の泥と陸上の土類だ。
問題はこの泥類だ。
建屋が壊されて流れればそこにはトイレが必ずあるわけだ。
海岸部の病院が幾つも被害にあった。飲食店、スーパー、全ての商店にトイレがあるわけだ。
こういった小さな田舎町のトイレはいわゆる「ぼっとん」だ。
簡易水洗も所詮は「ぼっとん」だ。
町の下水接続工事は着手して間もなく、完全水洗が揃うのは10年後の見通しだった。
見た目はウォシュレット付きの水洗でも浄水溝を使っている。
何百人の何ヶ月かの排出物を押し流してきているか判らない。
排水路からは溢れたのだか、逆行したのだかわからないけど、一緒くたのはずだ。
災害後に町に立った時、下水の蓋がはずれていたから、そこからも溢れたにちがいない。
波が後方の区域にたどり着くまで人が死んでいれば、死に際の嘔吐物、排泄物、体のどこかを大きく切断されていたらその大量の出血もあり、鼻血もあったろう。その人がどれだけの病気を持っていたか誰が知るだろう。
それでは、猫、犬、ネズミ等の小動物はいなかったか?ゴキブリは?
人がその状態ならば、当然小動物たちも家屋の残骸に挟まれるとか押しつぶされて内臓、脳みそ、眼球その他が飛び出しはしたのではないのか?
普段でさえ空気中はおびただしい種類のウィルスが蔓延しているというのに、水中はその状態だ。
一度津波に浸水された家屋は本当ならば水洗いだけでは使用できない。
ピカピカに綺麗に見えても・・・
ウィルスは生き続ける。彼らはそんな生易しい生物じゃないはずだ。
もう随分手遅れだが、今太平洋沿岸で捕れる海産物は出来れば口にしない方が良いかもしれない。
気にしなければ別に構わないが、例えば海底から引き揚げた遺体が真っ黒だったりするらしい。
前述したが、全て雲丹だ。目、口、耳、尻の穴全てに雲丹が張り付く。
雲丹でなければ蟹だ。
これが1体だけだと思うか。否、「沢山」である。
更に海水生物はこの戻り水をガブガブ飲んで生きている状態だ。
湾岸の海が綺麗になり、せめて彼らの世代交代まで待つのが良いように思う。
実は既に魚などの死体も浮いている。
原因はわからないが、水の可能性もあると漁業の人は言っていた。

誤解のないようにしていただきたいのは、これらを食べて死ぬとか、病気に必ずなるとか言っているわけではないし、そんな確証はこれっぽちも持っていない。
あくまでも股聞きの情報で、想像をたくましくしているだけだ。

とにかくその波の中に両足を突っ込み、波が引いた後の泥を散々踏みしめて歩いたのだから当然Jもウィルスまみれだ。。
避難所の移動後、靴の裏や、ジーパンに急いでエタノールをかけてみたところで避難した全員が同じだったわけだから意味がなかったが。
少なくとも数日間は、その足で歩きまわり、土で汚れた板やブルーシートに段ボールだけ敷いて座ったり横になったり。体中毒素にまみれていたわけだから。

*          *          *

豊間根中学校では班の編成後、食事の配給から掃除分担など、それなり流れができ始めた頃、山田町にある他の避難所では問題が上がっていた。
救援物資がボランティアチームが運営する自治体によって搾取されているらしかった。
時間が経つにつれ、行政のずさんさも同時に浮き彫りになっていく。